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Carpe diem

映画覚書用ブログだったはずが最近ラップバトル動画覚書用ブログに

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【ERB】東洋の哲学者vs西洋の哲学者



歴史上の人物や現存する著名人、時にはフィクションの人物を交えてラップでバトルさせる動画シリーズを配信するEpic Rap Battles of HistoryというYoutubeのチャンネル。
かなりマニアックな小ネタ満載でなおかつ舞台美術が無駄に質が高いことで人気です。
最新の東西哲学者対決が面白かったので解説を読みつつこれを機におおまかに試訳してみました。
語学難民なものでかなり度し難い誤訳が多々あると思いますがご容赦ください。
解説を読むと言葉遊びや内容の勉強になったので、そちらもできるだけ反映させてみました。


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イントゥ・ザ・ウッズ(ネタばれあり)

おおいにネタばれているのでいったん畳んでおきます。

魔法にかけられて 美術班がいい仕事している

『魔法にかけられて』を地上波で観ました。
ディズニーのプリンセス物語を現実(ニューヨーク)に移し替えたらどうなるのか、
というテーマを、セルフパロディを交えながらアイロニックに、
メタ的な視点で描いていて、かつエンディングは自家薬籠中のハッピーエンドにきちんと落としていて、面白かったです。
演出上で気になったところを少し。


エドワード王子の継母の侍従ナサニエルがジゼル姫を亡き者にしようと、ピザ屋の親父に扮して毒入りアップル・マティーニを勧める一連のシーン(完全に白雪姫のパロディですが、マティーニはジェームズ・ボンドを意識したチョイスでしょうか、マティーニは強い酒だから気をつけろというロバートの一言も入りました)。
それを阻止しようとジゼルの愉快な仲間たちの一員、リスのピップが奮闘するけどピザの下に敷かれてしまって、ナサニエルによりピザ屋の石釜に一緒に放り込まれようとします(未遂)。
その石釜の意匠が、中世美術の「地獄の口」の図像のようで、そのうまい使い方に思わず笑いました。

 
(左)カトリーヌ・ド・クレーヴの時祷書、c.1440、ピアポント・モーガン図書館
(右)フェデリコ・ツッカリ邸、1590年、ローマ

西洋美術には地獄の入り口を怪物の口であらわす系譜があるのですが、16世紀にもなると奇想趣味と融合して右図のように邸宅の玄関など実際の建築物にも取り入れられるように。
ボマルツォの怪物公園などもこうした意匠で有名です。

 
なんとも言いがたい妙技を感じるのが、この地獄の口の意匠、口ひげが生えているので、
ピザ屋の親父に扮したナサニエルの顔にも似ていること
ここからピザが焼きあがってくると思うとあまり興がのらない意匠なんですが、この一連のシーンは実際の店で撮ったものなのか、美術班の犯行なのか気になるところ。

そういえばナサニエル演じるティモシー・スポールってハリポタシリーズでネズミのアニメーガスに変身するピーター・ぺディグリューを演じていた方で、本作でピップと敵対関係にあるのも面白いですね。ディズニー作品だけでなく他の作品にまで色々パロディが及んでいて観ていて飽きなかったです。

クライマックスでは継母が正体(竜)をあらわし、ジゼル姫の思い人であるロバートを連れ出し、塔の上での決戦となります。まさに「囚われの姫君」の神話類型の、ジェンダーが逆転した形で。





パオロ・ウッチェロ《聖ゲオルギウスと竜》c.1458、ジャックマール=アンドレ美術館、パリ

「囚われの姫君」ってキリスト教の聖人伝にもあるとおり、割と古くからある類型です。
男女逆転版のこの類型は、実は『タイタニック』でも取り入れられていて(船中に残されたジャックをローズが助けに行くシーン)、以前の記事を書きながら「ハリウッドの脚本って従来のストーリー類型をうまく作り変えているから受けるんだな」と妙に納得した覚えがあります。(以前の考察では空に飛びいく女性と海に沈み行く男性という強烈な対比構造にも気づき戦慄しました。)
本作も御伽話のような王子を待つだけの姫君から、王子以外の恋人を選ぶという能動的な行動に出るジゼルの変容を物語る形で、こうした男女逆転劇が差し挟まれているのでしょうか。

ここでは継母自ら、剣を携え助けに来たジゼルが王子で、ロバートがまるで囚われの姫君のようだとメタ的な発言をしていて、観客にとってそうした意図を大変察知しやすい流れになっています。
しかし結局はピップの妙計によって、竜は塔の上から落下し事態は収束します。
竜は塔の上から落下し、物語は大楕円を迎えます。


お前竜の癖に飛べないのかよ。

どのくらいの人がこの衝撃の事実に気づいたのでしょうか。
どうもこうした脚本の矛盾は「悪役は高所から落ちて死ぬ」というクリシェの使用を優先したから生じたものと思えてなりません。
さらに竜亡き後塔(というよりも聖堂教会?)の屋根の上に残されたロバートとジゼルの二人は、雨で屋根の上をすべり落ち、間一髪で雨どいによって転落は免れます。俗に言う釣橋効果もあっていい感じになりつつ物語りは幕を閉じます。



こうした塔の上の決戦での一連の演出、なるほど大聖堂のフライング・バットレスを滑り落ちる、これがやりたかったのだな。
大聖堂に隠れて暮らすカジモドが一日でも街に降りられたらもう何もいらないと、ささやかな願いを謳い上げるシーンですが、本作のエンディングでの異化効果半端ありません。

ディズニーは最近御伽話の裏をかくような物語が主流となりつつありますが(『マレフィセント』は失敗だったと思う)『イントゥ・ザ・ウッズ』も本作ぐらい面白かったらいいなと思う次第です。

毛皮のヴィーナス(ネタばれあり)

 

ロマン・ポランスキー監督作『毛皮のヴィーナス』を観てきました。

あらすじは以下の通り。

ある舞台に向けオーディションを開いていた演出家のトマ(マチュー・アマルリック)のもとに、無名の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)が遅れてやってくる。ワンダに押し切られ彼女にもオーディションを受けさせることになるが、傲慢なトマはがさつで知性もなさそうな彼女のことを内心見下していた。しかしひとたび演技が始まると、台詞は完全に頭に入っており、役に対して深く理解している様子が見て取れた。先ほどまでとは打って変わって知性と気品を漂わせる彼女に惹きつけられていくトマ。オーディションが進むにつれワンダはますますトマを魅了し、二人の間の力関係は逆転。役を超えてトマ自身がワンダに支配されることに悦びを感じていく……。
Movie Walkerより

ウェス・アンダーソン監督『グランド・ブダペスト・ホテル』を見て以来マチュー・アマルリックに注目しています。なので上記の予告を見て、ファム・ファタルに翻弄されるマチューなら観に行かなければなるまいと。

 マゾヒズムの語源になったザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』を脚色した舞台のオーディションという形で、脚本家トマと女優ワンダ(奇しくも配役と同名)とが、時々現実との境界を踏み外しながら、倒錯的に演技を繰り広げていくというあらすじです。つまり二人の俳優によるワンシチュエーションでの映画なのですが、その条件下にも関わらず展開の奥行きの深さに驚きました。
 俳優二人の演技の豊かさがこうした深みを与えているのは当然なんですが、舞台上の小道具や即興の身ぶりで分かりやすい形で名画のパロディが行われているように感じました。こうした分かる人には分かるパロディでもって話に深みが出ているんじゃないかと。エンドロールでもこれでもかというほどのヨーロッパの裸婦を描いた名画が流れていますが、実際のところパロディは意識的に行われていたんですかね。

 しかしまず何よりこの映画でワンダと言う女性を印象づけるのに用いられているのは、ティツィアーノによるヴィーナス像のイメージ。予告カット(左上図)のワンダは、下着をつけているものの、赤いソファに横たわるポーズは《ウルビーノのヴィーナス》(1538年、ウフィツィ美術館、右上図)そのままです。
 マゾッホの小説自体ティツィアーノの《鏡とヴィーナス》(c.1555年、ワシントン国立美術館、右図)を登場人物が見かけることで、ストーリーが展開しているようで(未読)、ティツィアーノが贔屓されるのは自然な流れのような気がします。《鏡とヴィーナス》は劇中でも、主人公のクシェムスキー博士の愛用のポストカードであり、これをワンダが拾うことで、自らの性癖(毛皮への執着)の告白、そして主従関係の契約へと至るストーリーの要としての役割を果たしています。

  

ヴィーナス像と言ったら避けられないのがボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》(c.1483、ウフィツィ美術館、右上図)ですが、劇中ではこの恥じらいのポーズも用いられています。予告篇(1:40)でも観られます。脱いだドレスがホタテ貝に見立てられているのは、小物使い(笑)と舌を巻きました。

 この映画の核となる部分は、マゾッホの原作をトマが文学として評価していて、ワンダが女性への性差別と見做している、その解釈のすれ違いだと思われます。原作ではエピグラフとして「神、彼を罰して一人の女に与えたもう」という旧約聖書外典の『ユディト記』の文言が引かれています。ユディト記の内容とは、美しいユダヤの寡婦ユディトが、敵国アッシリアの司令官ホロフェルネスを誘惑の末泥酔させて打ち首に処して、祖国を救う(参考図:アルテミジア・ジェンティレスキ《ホロフェルネスの首を斬るユディト》c.1620、ウフィツィ美術館、下図)という女性版ヤマトタケルノミコトのような話なのですが、この文言がエピグラフとして引かれることで、男性を罰する女性としてのワンダという存在を暗示しているのでしょうか。本作の劇中でもワンダはこの文言について「これって女性差別よね」と指摘しているのですが、これよってほのめかされている原作の教訓「女は男の奴隷であるか、主人であるかの二択のみで、男と肩を並べることはない」という内容を批判しているのか、よく分かりませんでした。



 クシェムスキー博士を奴隷として掌握するヴィーナス=ワンダですが、ストーリーが進むにつれ、彼のを罰する女=ユディトとしての女性の位格が強調されます。本作ではクシェムスキー演じる脚本家トマが、女優ワンダに「私よりワンダと言う女性を理解している」とおだてられ、配役が逆転します。つまりトマがワンダを、ワンダがクシェムスキーを演じることに。そして脚本のクライマックスが、配役のジェンダーが転倒したまま繰り広げられるんですが、それがなんとも滑稽で意味深なラストを呼び起こすことに。
 「本当は支配されたいのは自分であり、柱に縛り付けられ、鞭打たれるべきなのは自分である」と告白するワンダ(=トマ)。ワンダを舞台上の小道具である柱に縛り付け、鞭打った後、その場からはけていくクシェムスキー(=ワンダ)。理想の女性ワンダを演じることでその一体感にしばらく恍惚としていたトマですが(この演技が迫真に迫っていてなんとも胸がざわついた)、口紅と首輪をつけ柱に縛り付けられているという現実での醜態にハッとし、舞台から消えたワンダに悪態をつき始めます。
 毛皮だけをまといバッカスの巫女の出で立ちで舞台へと現れたワンダは、柱に縛られたトマを生贄として扱うかのように、その周りで踊り始めます。その出で立ちはジョン・メラー・コリエの《バッカスの巫女》(c.1885、左下図)そっくりでした。一通り踊ったあとやっぱりトマを緊迫したまま舞台上に放置して彼女は去っていきます。トマが悪態をつきながらの幕引き。
 バッカスの巫女とはマイナスと呼ばれ、亡き妻エウリュディケへの思いから他の女性の誘いにはのらなかった不遜なオルフェウスを文字通りに八つ裂きにした女性達です。ギュスターヴ・モローの《オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘》(1865年、オルセー美術館、右下図)はまさに八つ裂きにされた後のオルフェウスの首を拾う少女を題材にしています。本作での突如としたマイナスによる幕引きは、トマの社会的破滅を示唆するものだったんでしょうか(なにせ女装したまま緊迫された姿ですし)。いずれにしてもこのラストはコメディ的な調子で、原作のエピグラフに帰結します。

 
 名画や文言を引用しながらワンダが蠱惑する女=ヴィーナス、罰する女=ユディト、破滅させる女=マイナスという女性の位格をつぎつぎまとっていく演出は、ワンシチュエーションの条件を飽きさせないものでした。それだからマチューを観に行ったつもりがいつのまにかエマニュエル・セニエに釘づけに。
 しかし本作がマゾッホによるエピグラフのユディト記の文言の解釈を巡る物語であったとすれば、脚本家トマの罰とは何だったのかいまいち判然としません。女性は男性と肩を並べることはないとした男女感に対する罰だったのか、現実に恋人が居ながら理想を架空の女性に見出したことへの罰だったのかどうなのか。途中でジェンダーが転倒した理由もこの滑稽なラストへの布石というだけでなく、トマの秘められた欲望なんかと話が絡んでいるのではないかと思うのですが、あと三回ぐらい見直したい所です。なんだかままならない感想ですが。


映画『千と千尋の神隠し』における物語の構造

 映画『千と千尋の神隠し』は、物語構成においてギリシャの古典文学『オデュッセイア』を大いに参照し、それらを日本的意匠の元に表現し、換骨奪胎している作品のように思える。

人間を豚へと変身させる魔女


図1
ヘンリー・フォード「魔女キルケーがオデュッセウスの一行を豚に変え、小屋へと追い立てる」(アンドルー・ラング『トロイとギリシャの物語』1907年 挿絵)

 『千と千尋の神隠し』は、随所に「見るなの禁忌」や「黄泉戸喫」などの神話を思い起こすエピソードを挿入していたり、少女の異世界での冒険譚を描いていることから和製『不思議の国のアリス』と評されたり、ともかく他作品との関係が考察されてやまない作品である。
 この記事で特に取り上げる『オデュッセイア』との関係については、安達まみが次のように指摘している。

(中略)簡易食堂で千尋の両親が食べ物をむさぼり食って、貪食の象徴たる豚に変えられるモティーフは、『オデュッセイア』の魔女キルケがオデュッセウスの仲間を豚に変えたくだりを思わせる。そして鞭打たれ、豚小屋に追い立てられる姿も、オデュッセウスの仲間たちとそっくり。でもこの作品はその一点に終始するわけじゃない 。(注1)

 「仲間が魔女によって豚に変身させられる」というモチーフが共通しているとして安達がここで取り上げたのは、『オデュッセイア』第十歌におけるエピソードである (注2)。そこでは『オデュッセイア』における主人公、トロイア戦争で勝利した英雄であるイタケーの国王オデュッセウスが帰国中、アイアイエー島にて臣下達を島の偵察に向かわせたところ、臣下達が魔女キルケーの館においてもてなされたあげく、魔女に鞭打たれて豚へと変身させられるというくだりが語られている(図1)。『オデュッセイア』ではキルケーがオデュッセウスの臣下をもてなす際に、料理に薬を入れ、それを食した臣下達は鞭打たれた後、豚に変身を遂げる。一方で『千と千尋の神隠し』において千尋の両親たちは、油屋の客用の食物を口にし、豚に変身した後鞭打たれている(12:10)。豚となった父が千尋の前で鞭打たれ、倒れていくシーンは「もはや完全に人ではなくなってしまった」両親をよく説明するものとして作中では使用されている。
 さて、ここで安達は「この作品はその一点に終始するわけじゃない」と、本作が単に『オデュッセイア』を翻案した映画であるという可能性を否定している。しかし、安達が述べるように本作と『オデュッセイア』との共通点は、「豚に変身させられる」というモチーフの一点のみだろうか。魔女キルケーと、湯婆婆という魔女との共通点にも見られるように、他に共通したモチーフもあるのではないだろうか。本作が『オデュッセイア』の翻案と言えるなら、本作においてどの部分がどのように改作されているのだろうか。ここでは『千と千尋の神隠し』と『オデュッセイア』とを比較しながら、本作の物語における構造を考察したい。

物語のベースとしての『オデュッセイア』
 両親が豚に変容してしまった後、千尋は身体が消失しかける。そこでハクから丸薬のようなものをもらい、それを飲むことによって消失を免れる(14:50)。このシーンでは、「この世界のものを食べないと、異世界の人間は消えてしまう」こと、そして渡された丸薬を飲んでも、千尋の両親のように「豚にはならない」ことがハクによって説明される。すなわちこの丸薬のようなものは、「この世界のものを食べないと消えてしまうが、食べると豚に変えられてしまう」という二つの問題点をうまく回避する食べ物だということである。
 実はこのような食べ物は、『オデュッセイア』でも描かれている。魔女キルケーの館で唯一食べ物を口にすることなく、オデュッセウスの元に帰って来た臣下は、事の次第を主人に報告する。オデュッセウスは豚に変えられた臣下達を取り戻そうと、一人で魔女キルケーの館に赴く。するとそこにはヘルメス神が現れ、魔女キルケーが出す物を食べても、豚に変身することを防ぐことのできる薬草、モーリュをオデュッセウスに与える(注3) 。ハクが千尋に与える丸薬と、ヘルメスがオデュッセウスに与える薬草モーリュとは、「食べても豚にならない」マジック・アイテムとして共通しているといえるだろう。
 そして、魔女キルケーの魔法を無事回避したオデュッセウスは、人間に戻った臣下達と共にしばらく魔女キルケーのもとに逗留することになる。そこでは魔女キルケーに仕える四人の婢女が「泉や森や海に流れこむ聖なる川の娘たち」であることが書かれている (注4)。『千と千尋の神隠し』でも湯婆婆にハクが、魔女に川の神が仕えるという、一見すれば奇妙な関係が描かれている。この不自然な関係は、『オデュッセイア』における魔女キルケーと、それに仕える川の娘たちという関係を、本作にも投影させた結果ではないのだろうか。「魔女」とはまったく西洋的な概念であり、それに日本の八百万の神々がもてなされ、仕えるというのは確かに奇妙な構図である (注5)。しかし本作では、魔女としての湯婆婆をやり手婆を思わせる温泉処の経営者、ハクを水干を着た稚児として描くことで、この違和感はある程度払拭されている。

 本作の登場人物の祖形を『オデュッセイア』に探るならば、これまで見てきたように、千尋がオデュッセウス、湯婆婆が魔女キルケーに、ハクがヘルメスやキルケーに仕える川の神に相当する。しかし、他にも『オデュッセイア』に祖形を見出せるキャラクターがいる。カオナシである。
 オデュッセウス達が魔女キルケーの住むアイアイエー島に逗留する前に立ち寄った、一つ目の怪人キュクロープス達の島でのエピソード(第九歌)にそれは見出される(注6) 。この島でオデュッセウスの臣下達は日ごとにキュクロープスたちに食べられてしまう。オデュッセウスはそこで美酒をキュクロープスに差し出す。上機嫌になったキュクロープスはオデュッセウスに、お礼に彼を最後に食べることとし、ついでに名前を尋ねる。オデュッセウスは「ウーティス(Οὖτις: 誰でも無い、の意。邦訳ではタレモナシ)」と答える。その後オデュッセウスは酔ったキュクロープスを襲撃し、盲目にしてしまう。襲われたキュクロープスは仲間のキュクロープス達に誰に襲われたのか問われるが、そこで「ウーティス(誰でも無い)だ」と答え、「ひとりでにそうなったのなら仕方ない」と言われてしまう。
 本作における「本名を隠すことで身は守られる」という思想と、カオナシというキャラクターに象徴された現代社会における匿名性は、このエピソードを下敷きにしているのではないだろうか。カオナシは異世界から来た者として、千尋と共通している。しかし湯婆婆とは契約を結ばず、油屋の世界に参入することを許されている存在である。この意味では千尋と対の存在となっていると言える。カオナシの末路は、油屋の世界の食べ物を、前述の魔よけの丸薬もなく口にした場合の、千尋の末路だと言えるだろう。カオナシは油屋で出される食べ物を、豚になることなく口にすることができた。しかしその代償として、銭婆に引きとめられ元の世界には帰れなくなっている。オデュッセウスがウーティスと名乗ることでキュクロープス達の報復を回避したとするならば、千尋はカオナシと反対の行動に出ることで、あらゆる災厄を回避しているのである。

冥府への旅立ち―「沼の底」と「そらの孔」
 『千と千尋の神隠し』の後半部において、千尋はハクが盗んだ「魔女の契約印」を返す為に、海の上を走る電車に乗って、銭婆の住む「沼の底」へと旅立つ。千尋は電車に乗る為に釜爺から切符を受け取るが、その際に釜爺が「昔は戻りの電車があったが、近頃は行きっぱなしだ」(1:30:25)と述べていることからも分かるように、電車は死の世界に向かって走っていることがほのめかされている。
 『オデュッセイア』においてもこうした冥府巡りのエピソードが挿入されている。第十歌において、魔女キルケーのもとに逗留することになったオデュッセウス一行だったが、帰国の為の航海の際にどのような災難が待ち受けているか、冥府にいる預言者テイレシアースに伺いを立てるようというキルケーの提案によって、オデュッセウス一行は冥府へと航海することになる 。このような冥府、あるいは異郷からさらに異郷へと旅立っていくエピソードは両作に共通している。しかし、千尋の銭婆訪問の旅において、もうひとつ関連性を想起させられる作品がある。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』である。

 『千と千尋の神隠し』中の海を走る電車が、銀河鉄道を思わせるとの指摘は多数ある (注7)。彼岸と此岸を中継するものとしての電車と言う点で両者は共通している。しかし、『千と千尋の神隠し』が『銀河鉄道の夜』へのオマージュを捧げているとさらに思わせる点は、「沼の底」という銭婆が住んでいる地名にある。これは『銀河鉄道の夜』において、ジョバンニとの銀河鉄道での旅の果てに、カンパネルラが忽然と姿を消してしまう、「そらの孔」の明らかな引用だと言えるだろう(注9) 。銀河鉄道で旅する夢から覚めたジョバンニは、カンパネルラが友人を助けようと川で溺死したという知らせを受け、自分が夢で乗っていた汽車が、死へ向かう汽車であったことを理解する。一方で冥府から無事に帰還し、帰国を目指すオデュッセウスのように、千尋はハクと共に無事に「沼の底」から油屋へと帰還し、元の世界へと戻っていくのである。

双子の魔女-運命の三女神


図2
ハンス・バルドゥング・グリーン《運命の三女神》木版画、1513年、21.8cm×15.4cm、個人蔵

 『オデュッセイア』の魔女キルケーが湯婆婆の祖形と言えるなら、銭婆の祖形といえるキャラクターは存在するのだろうか。おそらく銭婆と湯婆婆の双子の魔女というキャラクターの祖形は、ギリシャ神話における運命を司る三人の女神、モイライに見出すことができるだろう。


図3
アルフレッド・アガッシュ《運命の三女神》板に油彩、1885年、リール、リール宮殿美術館

 モイライは図2、図3のように三人の老婆として描かれる。長女のクロートーは運命の糸を糸巻き棒から紡ぎ、次女のラケシスがその糸の長さを測り、個人に運命や寿命を割り当てる役目を果たす。三女のアトロポスはその糸を断ち切り、個人の死を司る役目を持つ。とすれば、銭婆は糸を紡ぐクロートー、湯婆婆は運命を割り当てるラケシスに相当すると言えるのではないだろうか。実際、作中において湯婆婆は個人に運命、あるいは仕事を割当てる存在であるし、銭婆は、カオナシや坊ネズミ達と一緒に糸を紡いで、髪飾りをつくり千尋に与えている(1: 50:26)。この二人の魔女がモイライを祖形としているとするならば、このシーンは、千と言う名のもとに仕事(=運命)を湯婆婆に与えられた千尋が、本当の名を取り戻し、銭婆によって紡がれた髪飾りを得ることで、元の、あるいは新しい運命を得たことを象徴していると言えるかもしれない。

以上見てきたように、『千と千尋の神隠し』はキャラクター設定や物語の要所要所において、『オデュッセイア』などの古代ギリシャの文学や神話を大いに参考にしていると言える。そしてそれは、魔女キルケーの館の翻案としての油屋、水干を着た川の神ハク、オデュッセウスが旅立った冥府としてのそらの孔(「沼の底」)など、日本的な意匠でもって視覚的なレヴェルにおいて表現されていると言えるだろう。
 しかし、『オデュッセイア』や『銀河鉄道の夜』のように、向かう先が死の世界であることを、『千と千尋の神隠し』において明確に示すものは何もない。糸を紡ぐ銭婆、仕事を割り当てる湯婆婆はいても、死を司る三人目の魔女は作中に存在しないのである。クロートー=銭婆が生を司る女神であったように、電車はこれまでの物語と違って、案外生の世界に向かって走っているのかもしれない。

注1:安達まみ「『千と千尋の神隠し』をめぐるフィクショナルな対話」『ユリイカ』青土社、2001、8月臨時増刊号、71頁。
2:ホメーロス「オデュッセイア」高津春繁訳、『ホメーロス 筑摩文学大系5』筑摩書房、1971、360頁。
3:同書、361頁。
4:同上。
5:魔女キルケーは海流の神オケアノスの孫である。従ってこの神の孫であるキルケーに(おそらく小さい)川の女神たちが仕える、という構図には全く違和感は生じない。
6:ホメーロス同掲書、354-355頁。
7:同書、363頁。
8:『ユリイカ』青土社、2001、8月臨時増刊号、51頁(香山リカによる)、60頁(天沢退次郎による)。
9:宮沢賢治「銀河鉄道の夜」『新収 宮沢賢治全集』第十二巻、筑摩書房、1980、91-161頁。

        
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