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映画『千と千尋の神隠し』における物語の構造

 映画『千と千尋の神隠し』は、物語構成においてギリシャの古典文学『オデュッセイア』を大いに参照し、それらを日本的意匠の元に表現し、換骨奪胎している作品のように思える。

人間を豚へと変身させる魔女


図1
ヘンリー・フォード「魔女キルケーがオデュッセウスの一行を豚に変え、小屋へと追い立てる」(アンドルー・ラング『トロイとギリシャの物語』1907年 挿絵)

 『千と千尋の神隠し』は、随所に「見るなの禁忌」や「黄泉戸喫」などの神話を思い起こすエピソードを挿入していたり、少女の異世界での冒険譚を描いていることから和製『不思議の国のアリス』と評されたり、ともかく他作品との関係が考察されてやまない作品である。
 この記事で特に取り上げる『オデュッセイア』との関係については、安達まみが次のように指摘している。

(中略)簡易食堂で千尋の両親が食べ物をむさぼり食って、貪食の象徴たる豚に変えられるモティーフは、『オデュッセイア』の魔女キルケがオデュッセウスの仲間を豚に変えたくだりを思わせる。そして鞭打たれ、豚小屋に追い立てられる姿も、オデュッセウスの仲間たちとそっくり。でもこの作品はその一点に終始するわけじゃない 。(注1)

 「仲間が魔女によって豚に変身させられる」というモチーフが共通しているとして安達がここで取り上げたのは、『オデュッセイア』第十歌におけるエピソードである (注2)。そこでは『オデュッセイア』における主人公、トロイア戦争で勝利した英雄であるイタケーの国王オデュッセウスが帰国中、アイアイエー島にて臣下達を島の偵察に向かわせたところ、臣下達が魔女キルケーの館においてもてなされたあげく、魔女に鞭打たれて豚へと変身させられるというくだりが語られている(図1)。『オデュッセイア』ではキルケーがオデュッセウスの臣下をもてなす際に、料理に薬を入れ、それを食した臣下達は鞭打たれた後、豚に変身を遂げる。一方で『千と千尋の神隠し』において千尋の両親たちは、油屋の客用の食物を口にし、豚に変身した後鞭打たれている(12:10)。豚となった父が千尋の前で鞭打たれ、倒れていくシーンは「もはや完全に人ではなくなってしまった」両親をよく説明するものとして作中では使用されている。
 さて、ここで安達は「この作品はその一点に終始するわけじゃない」と、本作が単に『オデュッセイア』を翻案した映画であるという可能性を否定している。しかし、安達が述べるように本作と『オデュッセイア』との共通点は、「豚に変身させられる」というモチーフの一点のみだろうか。魔女キルケーと、湯婆婆という魔女との共通点にも見られるように、他に共通したモチーフもあるのではないだろうか。本作が『オデュッセイア』の翻案と言えるなら、本作においてどの部分がどのように改作されているのだろうか。ここでは『千と千尋の神隠し』と『オデュッセイア』とを比較しながら、本作の物語における構造を考察したい。

物語のベースとしての『オデュッセイア』
 両親が豚に変容してしまった後、千尋は身体が消失しかける。そこでハクから丸薬のようなものをもらい、それを飲むことによって消失を免れる(14:50)。このシーンでは、「この世界のものを食べないと、異世界の人間は消えてしまう」こと、そして渡された丸薬を飲んでも、千尋の両親のように「豚にはならない」ことがハクによって説明される。すなわちこの丸薬のようなものは、「この世界のものを食べないと消えてしまうが、食べると豚に変えられてしまう」という二つの問題点をうまく回避する食べ物だということである。
 実はこのような食べ物は、『オデュッセイア』でも描かれている。魔女キルケーの館で唯一食べ物を口にすることなく、オデュッセウスの元に帰って来た臣下は、事の次第を主人に報告する。オデュッセウスは豚に変えられた臣下達を取り戻そうと、一人で魔女キルケーの館に赴く。するとそこにはヘルメス神が現れ、魔女キルケーが出す物を食べても、豚に変身することを防ぐことのできる薬草、モーリュをオデュッセウスに与える(注3) 。ハクが千尋に与える丸薬と、ヘルメスがオデュッセウスに与える薬草モーリュとは、「食べても豚にならない」マジック・アイテムとして共通しているといえるだろう。
 そして、魔女キルケーの魔法を無事回避したオデュッセウスは、人間に戻った臣下達と共にしばらく魔女キルケーのもとに逗留することになる。そこでは魔女キルケーに仕える四人の婢女が「泉や森や海に流れこむ聖なる川の娘たち」であることが書かれている (注4)。『千と千尋の神隠し』でも湯婆婆にハクが、魔女に川の神が仕えるという、一見すれば奇妙な関係が描かれている。この不自然な関係は、『オデュッセイア』における魔女キルケーと、それに仕える川の娘たちという関係を、本作にも投影させた結果ではないのだろうか。「魔女」とはまったく西洋的な概念であり、それに日本の八百万の神々がもてなされ、仕えるというのは確かに奇妙な構図である (注5)。しかし本作では、魔女としての湯婆婆をやり手婆を思わせる温泉処の経営者、ハクを水干を着た稚児として描くことで、この違和感はある程度払拭されている。

 本作の登場人物の祖形を『オデュッセイア』に探るならば、これまで見てきたように、千尋がオデュッセウス、湯婆婆が魔女キルケーに、ハクがヘルメスやキルケーに仕える川の神に相当する。しかし、他にも『オデュッセイア』に祖形を見出せるキャラクターがいる。カオナシである。
 オデュッセウス達が魔女キルケーの住むアイアイエー島に逗留する前に立ち寄った、一つ目の怪人キュクロープス達の島でのエピソード(第九歌)にそれは見出される(注6) 。この島でオデュッセウスの臣下達は日ごとにキュクロープスたちに食べられてしまう。オデュッセウスはそこで美酒をキュクロープスに差し出す。上機嫌になったキュクロープスはオデュッセウスに、お礼に彼を最後に食べることとし、ついでに名前を尋ねる。オデュッセウスは「ウーティス(Οὖτις: 誰でも無い、の意。邦訳ではタレモナシ)」と答える。その後オデュッセウスは酔ったキュクロープスを襲撃し、盲目にしてしまう。襲われたキュクロープスは仲間のキュクロープス達に誰に襲われたのか問われるが、そこで「ウーティス(誰でも無い)だ」と答え、「ひとりでにそうなったのなら仕方ない」と言われてしまう。
 本作における「本名を隠すことで身は守られる」という思想と、カオナシというキャラクターに象徴された現代社会における匿名性は、このエピソードを下敷きにしているのではないだろうか。カオナシは異世界から来た者として、千尋と共通している。しかし湯婆婆とは契約を結ばず、油屋の世界に参入することを許されている存在である。この意味では千尋と対の存在となっていると言える。カオナシの末路は、油屋の世界の食べ物を、前述の魔よけの丸薬もなく口にした場合の、千尋の末路だと言えるだろう。カオナシは油屋で出される食べ物を、豚になることなく口にすることができた。しかしその代償として、銭婆に引きとめられ元の世界には帰れなくなっている。オデュッセウスがウーティスと名乗ることでキュクロープス達の報復を回避したとするならば、千尋はカオナシと反対の行動に出ることで、あらゆる災厄を回避しているのである。

冥府への旅立ち―「沼の底」と「そらの孔」
 『千と千尋の神隠し』の後半部において、千尋はハクが盗んだ「魔女の契約印」を返す為に、海の上を走る電車に乗って、銭婆の住む「沼の底」へと旅立つ。千尋は電車に乗る為に釜爺から切符を受け取るが、その際に釜爺が「昔は戻りの電車があったが、近頃は行きっぱなしだ」(1:30:25)と述べていることからも分かるように、電車は死の世界に向かって走っていることがほのめかされている。
 『オデュッセイア』においてもこうした冥府巡りのエピソードが挿入されている。第十歌において、魔女キルケーのもとに逗留することになったオデュッセウス一行だったが、帰国の為の航海の際にどのような災難が待ち受けているか、冥府にいる預言者テイレシアースに伺いを立てるようというキルケーの提案によって、オデュッセウス一行は冥府へと航海することになる 。このような冥府、あるいは異郷からさらに異郷へと旅立っていくエピソードは両作に共通している。しかし、千尋の銭婆訪問の旅において、もうひとつ関連性を想起させられる作品がある。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』である。

 『千と千尋の神隠し』中の海を走る電車が、銀河鉄道を思わせるとの指摘は多数ある (注7)。彼岸と此岸を中継するものとしての電車と言う点で両者は共通している。しかし、『千と千尋の神隠し』が『銀河鉄道の夜』へのオマージュを捧げているとさらに思わせる点は、「沼の底」という銭婆が住んでいる地名にある。これは『銀河鉄道の夜』において、ジョバンニとの銀河鉄道での旅の果てに、カンパネルラが忽然と姿を消してしまう、「そらの孔」の明らかな引用だと言えるだろう(注9) 。銀河鉄道で旅する夢から覚めたジョバンニは、カンパネルラが友人を助けようと川で溺死したという知らせを受け、自分が夢で乗っていた汽車が、死へ向かう汽車であったことを理解する。一方で冥府から無事に帰還し、帰国を目指すオデュッセウスのように、千尋はハクと共に無事に「沼の底」から油屋へと帰還し、元の世界へと戻っていくのである。

双子の魔女-運命の三女神


図2
ハンス・バルドゥング・グリーン《運命の三女神》木版画、1513年、21.8cm×15.4cm、個人蔵

 『オデュッセイア』の魔女キルケーが湯婆婆の祖形と言えるなら、銭婆の祖形といえるキャラクターは存在するのだろうか。おそらく銭婆と湯婆婆の双子の魔女というキャラクターの祖形は、ギリシャ神話における運命を司る三人の女神、モイライに見出すことができるだろう。


図3
アルフレッド・アガッシュ《運命の三女神》板に油彩、1885年、リール、リール宮殿美術館

 モイライは図2、図3のように三人の老婆として描かれる。長女のクロートーは運命の糸を糸巻き棒から紡ぎ、次女のラケシスがその糸の長さを測り、個人に運命や寿命を割り当てる役目を果たす。三女のアトロポスはその糸を断ち切り、個人の死を司る役目を持つ。とすれば、銭婆は糸を紡ぐクロートー、湯婆婆は運命を割り当てるラケシスに相当すると言えるのではないだろうか。実際、作中において湯婆婆は個人に運命、あるいは仕事を割当てる存在であるし、銭婆は、カオナシや坊ネズミ達と一緒に糸を紡いで、髪飾りをつくり千尋に与えている(1: 50:26)。この二人の魔女がモイライを祖形としているとするならば、このシーンは、千と言う名のもとに仕事(=運命)を湯婆婆に与えられた千尋が、本当の名を取り戻し、銭婆によって紡がれた髪飾りを得ることで、元の、あるいは新しい運命を得たことを象徴していると言えるかもしれない。

以上見てきたように、『千と千尋の神隠し』はキャラクター設定や物語の要所要所において、『オデュッセイア』などの古代ギリシャの文学や神話を大いに参考にしていると言える。そしてそれは、魔女キルケーの館の翻案としての油屋、水干を着た川の神ハク、オデュッセウスが旅立った冥府としてのそらの孔(「沼の底」)など、日本的な意匠でもって視覚的なレヴェルにおいて表現されていると言えるだろう。
 しかし、『オデュッセイア』や『銀河鉄道の夜』のように、向かう先が死の世界であることを、『千と千尋の神隠し』において明確に示すものは何もない。糸を紡ぐ銭婆、仕事を割り当てる湯婆婆はいても、死を司る三人目の魔女は作中に存在しないのである。クロートー=銭婆が生を司る女神であったように、電車はこれまでの物語と違って、案外生の世界に向かって走っているのかもしれない。

注1:安達まみ「『千と千尋の神隠し』をめぐるフィクショナルな対話」『ユリイカ』青土社、2001、8月臨時増刊号、71頁。
2:ホメーロス「オデュッセイア」高津春繁訳、『ホメーロス 筑摩文学大系5』筑摩書房、1971、360頁。
3:同書、361頁。
4:同上。
5:魔女キルケーは海流の神オケアノスの孫である。従ってこの神の孫であるキルケーに(おそらく小さい)川の女神たちが仕える、という構図には全く違和感は生じない。
6:ホメーロス同掲書、354-355頁。
7:同書、363頁。
8:『ユリイカ』青土社、2001、8月臨時増刊号、51頁(香山リカによる)、60頁(天沢退次郎による)。
9:宮沢賢治「銀河鉄道の夜」『新収 宮沢賢治全集』第十二巻、筑摩書房、1980、91-161頁。

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