『魔法にかけられて』を地上波で観ました。
ディズニーのプリンセス物語を現実(ニューヨーク)に移し替えたらどうなるのか、
というテーマを、セルフパロディを交えながらアイロニックに、
メタ的な視点で描いていて、かつエンディングは自家薬籠中のハッピーエンドにきちんと落としていて、面白かったです。
演出上で気になったところを少し。
エドワード王子の継母の侍従ナサニエルがジゼル姫を亡き者にしようと、ピザ屋の親父に扮して毒入りアップル・マティーニを勧める一連のシーン(完全に白雪姫のパロディですが、マティーニはジェームズ・ボンドを意識したチョイスでしょうか、マティーニは強い酒だから気をつけろというロバートの一言も入りました)。
それを阻止しようとジゼルの愉快な仲間たちの一員、リスのピップが奮闘するけどピザの下に敷かれてしまって、ナサニエルによりピザ屋の石釜に一緒に放り込まれようとします(未遂)。
その石釜の意匠が、中世美術の「地獄の口」の図像のようで、そのうまい使い方に思わず笑いました。

(左)カトリーヌ・ド・クレーヴの時祷書、c.1440、ピアポント・モーガン図書館
(右)フェデリコ・ツッカリ邸、1590年、ローマ
西洋美術には地獄の入り口を怪物の口であらわす系譜があるのですが、16世紀にもなると奇想趣味と融合して右図のように邸宅の玄関など実際の建築物にも取り入れられるように。
ボマルツォの怪物公園などもこうした意匠で有名です。
なんとも言いがたい妙技を感じるのが、この地獄の口の意匠、口ひげが生えているので、
ピザ屋の親父に扮したナサニエルの顔にも似ていること。
ここからピザが焼きあがってくると思うとあまり興がのらない意匠なんですが、この一連のシーンは実際の店で撮ったものなのか、美術班の犯行なのか気になるところ。
そういえばナサニエル演じるティモシー・スポールってハリポタシリーズでネズミのアニメーガスに変身するピーター・ぺディグリューを演じていた方で、本作でピップと敵対関係にあるのも面白いですね。ディズニー作品だけでなく他の作品にまで色々パロディが及んでいて観ていて飽きなかったです。
クライマックスでは継母が正体(竜)をあらわし、ジゼル姫の思い人であるロバートを連れ出し、塔の上での決戦となります。まさに「囚われの姫君」の神話類型の、ジェンダーが逆転した形で。

パオロ・ウッチェロ《聖ゲオルギウスと竜》c.1458、ジャックマール=アンドレ美術館、パリ
「囚われの姫君」ってキリスト教の聖人伝にもあるとおり、割と古くからある類型です。
男女逆転版のこの類型は、実は『タイタニック』でも取り入れられていて(船中に残されたジャックをローズが助けに行くシーン)、
以前の記事を書きながら「ハリウッドの脚本って従来のストーリー類型をうまく作り変えているから受けるんだな」と妙に納得した覚えがあります。(以前の考察では空に飛びいく女性と海に沈み行く男性という強烈な対比構造にも気づき戦慄しました。)
本作も御伽話のような王子を待つだけの姫君から、王子以外の恋人を選ぶという能動的な行動に出るジゼルの変容を物語る形で、こうした男女逆転劇が差し挟まれているのでしょうか。
ここでは継母自ら、剣を携え助けに来たジゼルが王子で、ロバートがまるで囚われの姫君のようだとメタ的な発言をしていて、観客にとってそうした意図を大変察知しやすい流れになっています。
しかし結局はピップの妙計によって、竜は塔の上から落下し事態は収束します。
竜は塔の上から落下し、物語は大楕円を迎えます。
…
お前竜の癖に飛べないのかよ。
どのくらいの人がこの衝撃の事実に気づいたのでしょうか。
どうもこうした脚本の矛盾は「悪役は高所から落ちて死ぬ」というクリシェの使用を優先したから生じたものと思えてなりません。
さらに竜亡き後塔(というよりも聖堂教会?)の屋根の上に残されたロバートとジゼルの二人は、雨で屋根の上をすべり落ち、間一髪で雨どいによって転落は免れます。俗に言う釣橋効果もあっていい感じになりつつ物語りは幕を閉じます。
こうした塔の上の決戦での一連の演出、なるほど大聖堂のフライング・バットレスを滑り落ちる、これがやりたかったのだな。
大聖堂に隠れて暮らすカジモドが一日でも街に降りられたらもう何もいらないと、ささやかな願いを謳い上げるシーンですが、本作のエンディングでの異化効果半端ありません。
ディズニーは最近御伽話の裏をかくような物語が主流となりつつありますが(『マレフィセント』は失敗だったと思う)『イントゥ・ザ・ウッズ』も本作ぐらい面白かったらいいなと思う次第です。
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