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毛皮のヴィーナス(ネタばれあり)

 

ロマン・ポランスキー監督作『毛皮のヴィーナス』を観てきました。

あらすじは以下の通り。

ある舞台に向けオーディションを開いていた演出家のトマ(マチュー・アマルリック)のもとに、無名の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)が遅れてやってくる。ワンダに押し切られ彼女にもオーディションを受けさせることになるが、傲慢なトマはがさつで知性もなさそうな彼女のことを内心見下していた。しかしひとたび演技が始まると、台詞は完全に頭に入っており、役に対して深く理解している様子が見て取れた。先ほどまでとは打って変わって知性と気品を漂わせる彼女に惹きつけられていくトマ。オーディションが進むにつれワンダはますますトマを魅了し、二人の間の力関係は逆転。役を超えてトマ自身がワンダに支配されることに悦びを感じていく……。
Movie Walkerより

ウェス・アンダーソン監督『グランド・ブダペスト・ホテル』を見て以来マチュー・アマルリックに注目しています。なので上記の予告を見て、ファム・ファタルに翻弄されるマチューなら観に行かなければなるまいと。

 マゾヒズムの語源になったザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』を脚色した舞台のオーディションという形で、脚本家トマと女優ワンダ(奇しくも配役と同名)とが、時々現実との境界を踏み外しながら、倒錯的に演技を繰り広げていくというあらすじです。つまり二人の俳優によるワンシチュエーションでの映画なのですが、その条件下にも関わらず展開の奥行きの深さに驚きました。
 俳優二人の演技の豊かさがこうした深みを与えているのは当然なんですが、舞台上の小道具や即興の身ぶりで分かりやすい形で名画のパロディが行われているように感じました。こうした分かる人には分かるパロディでもって話に深みが出ているんじゃないかと。エンドロールでもこれでもかというほどのヨーロッパの裸婦を描いた名画が流れていますが、実際のところパロディは意識的に行われていたんですかね。

 しかしまず何よりこの映画でワンダと言う女性を印象づけるのに用いられているのは、ティツィアーノによるヴィーナス像のイメージ。予告カット(左上図)のワンダは、下着をつけているものの、赤いソファに横たわるポーズは《ウルビーノのヴィーナス》(1538年、ウフィツィ美術館、右上図)そのままです。
 マゾッホの小説自体ティツィアーノの《鏡とヴィーナス》(c.1555年、ワシントン国立美術館、右図)を登場人物が見かけることで、ストーリーが展開しているようで(未読)、ティツィアーノが贔屓されるのは自然な流れのような気がします。《鏡とヴィーナス》は劇中でも、主人公のクシェムスキー博士の愛用のポストカードであり、これをワンダが拾うことで、自らの性癖(毛皮への執着)の告白、そして主従関係の契約へと至るストーリーの要としての役割を果たしています。

  

ヴィーナス像と言ったら避けられないのがボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》(c.1483、ウフィツィ美術館、右上図)ですが、劇中ではこの恥じらいのポーズも用いられています。予告篇(1:40)でも観られます。脱いだドレスがホタテ貝に見立てられているのは、小物使い(笑)と舌を巻きました。

 この映画の核となる部分は、マゾッホの原作をトマが文学として評価していて、ワンダが女性への性差別と見做している、その解釈のすれ違いだと思われます。原作ではエピグラフとして「神、彼を罰して一人の女に与えたもう」という旧約聖書外典の『ユディト記』の文言が引かれています。ユディト記の内容とは、美しいユダヤの寡婦ユディトが、敵国アッシリアの司令官ホロフェルネスを誘惑の末泥酔させて打ち首に処して、祖国を救う(参考図:アルテミジア・ジェンティレスキ《ホロフェルネスの首を斬るユディト》c.1620、ウフィツィ美術館、下図)という女性版ヤマトタケルノミコトのような話なのですが、この文言がエピグラフとして引かれることで、男性を罰する女性としてのワンダという存在を暗示しているのでしょうか。本作の劇中でもワンダはこの文言について「これって女性差別よね」と指摘しているのですが、これよってほのめかされている原作の教訓「女は男の奴隷であるか、主人であるかの二択のみで、男と肩を並べることはない」という内容を批判しているのか、よく分かりませんでした。



 クシェムスキー博士を奴隷として掌握するヴィーナス=ワンダですが、ストーリーが進むにつれ、彼のを罰する女=ユディトとしての女性の位格が強調されます。本作ではクシェムスキー演じる脚本家トマが、女優ワンダに「私よりワンダと言う女性を理解している」とおだてられ、配役が逆転します。つまりトマがワンダを、ワンダがクシェムスキーを演じることに。そして脚本のクライマックスが、配役のジェンダーが転倒したまま繰り広げられるんですが、それがなんとも滑稽で意味深なラストを呼び起こすことに。
 「本当は支配されたいのは自分であり、柱に縛り付けられ、鞭打たれるべきなのは自分である」と告白するワンダ(=トマ)。ワンダを舞台上の小道具である柱に縛り付け、鞭打った後、その場からはけていくクシェムスキー(=ワンダ)。理想の女性ワンダを演じることでその一体感にしばらく恍惚としていたトマですが(この演技が迫真に迫っていてなんとも胸がざわついた)、口紅と首輪をつけ柱に縛り付けられているという現実での醜態にハッとし、舞台から消えたワンダに悪態をつき始めます。
 毛皮だけをまといバッカスの巫女の出で立ちで舞台へと現れたワンダは、柱に縛られたトマを生贄として扱うかのように、その周りで踊り始めます。その出で立ちはジョン・メラー・コリエの《バッカスの巫女》(c.1885、左下図)そっくりでした。一通り踊ったあとやっぱりトマを緊迫したまま舞台上に放置して彼女は去っていきます。トマが悪態をつきながらの幕引き。
 バッカスの巫女とはマイナスと呼ばれ、亡き妻エウリュディケへの思いから他の女性の誘いにはのらなかった不遜なオルフェウスを文字通りに八つ裂きにした女性達です。ギュスターヴ・モローの《オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘》(1865年、オルセー美術館、右下図)はまさに八つ裂きにされた後のオルフェウスの首を拾う少女を題材にしています。本作での突如としたマイナスによる幕引きは、トマの社会的破滅を示唆するものだったんでしょうか(なにせ女装したまま緊迫された姿ですし)。いずれにしてもこのラストはコメディ的な調子で、原作のエピグラフに帰結します。

 
 名画や文言を引用しながらワンダが蠱惑する女=ヴィーナス、罰する女=ユディト、破滅させる女=マイナスという女性の位格をつぎつぎまとっていく演出は、ワンシチュエーションの条件を飽きさせないものでした。それだからマチューを観に行ったつもりがいつのまにかエマニュエル・セニエに釘づけに。
 しかし本作がマゾッホによるエピグラフのユディト記の文言の解釈を巡る物語であったとすれば、脚本家トマの罰とは何だったのかいまいち判然としません。女性は男性と肩を並べることはないとした男女感に対する罰だったのか、現実に恋人が居ながら理想を架空の女性に見出したことへの罰だったのかどうなのか。途中でジェンダーが転倒した理由もこの滑稽なラストへの布石というだけでなく、トマの秘められた欲望なんかと話が絡んでいるのではないかと思うのですが、あと三回ぐらい見直したい所です。なんだかままならない感想ですが。


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